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No.22/2008 |
■読者からの便り |
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ITFに援助を求めなかったのは、私の誤りでした
私は、キャプテン・カルラモフ号(旧船名ストレリツ)の元船長です。6月の末に、日本の新潟港でITFが訪船してきました。本船乗組員の行動に、私は参加しませんでした。残念ながら、オペレーターのドラカール・マリン社と船主のSVS海運貿易会社の約束を、私は信じていたのです。
本船は、2007年6月30日に、不十分なディーゼル・オイルと僅かな食糧を持って新潟港を出ました。私が出港する決心をしたのは、新潟港のPSCで重大な欠陥が発見され、新潟港に長期間(25日間)滞在することになったため、船主の財政状態が危機に瀕していることを理解していたためです。その後、船名が変更され、船籍も変わりました。日本では燃料とディーゼル油が高価なので南千島またはサハリンで本船の燃料を補給したい、とのカムチャツカのペトロパブロフスクの船主、SVストロクルヤ社(実際には、会社はベリーズに登記されていました)の提案に、私は同意したのです。
本船が北海道の北東端に着いたとき、船主は私に二つの選択肢を示しました。第一は、北千島まで行き、「はしけ」からディーゼル油の補給を受けること。第二は、サハリンのアニヴァ湾まで行くこと。これは2日半の航海の延長を意味しました。
私は、第一の選択肢を拒否しました。危険が多すぎたからです。悪天候の海に、「はしけ」を出す人はいません。私は燃料補給のため、アニヴァ湾に向かいました。私の見るところでは、より長い航海を選択するのは恥と思うだろう、と船主が勝手に想像していたようです。私は7月3日に、カムチャツカのペトロパブロフスクで病気のため下船したい、との申請を船主に送りました。
燃料補給については、私の判断が正しかったようです。本船は北千島へ向かう途上、悪天候に遭遇し、3日半にわたって避難しなければなりませんでした。7月13日の夕刻、カムチャツカのペトロパブロフスクに到着したとき、アニヴァ湾で補給したディーゼル油15mt(メトリックトン)のうち8mtが残っていました。計画では8日間の航海のはずが、14日間かかってしまったのです。このため、食糧も清水も不足していました。
7月14-15日、船長の交代がありました。ペトロパブロフスクで下船する予定の乗組員の正当な賃金を清算するとの船主の約束は、オペレーターの文書による保証があるにもかかわらず、無視されました。契約書の変更も、ありませんでした。
日本に滞在中、船主は頻繁に私に電話してきました。ところが、ペトロパブロフスクに着いたときには、私に電話する時間は1分たりともなかったのです。船長を交代した後、私はもはや無用の存在で、彼は私の賃金に関する約束など完全に忘れてしまったのです。
私がカムチャツカのペトロパブロフスクで乗船したとき、出港まで1日しかなかったので、書類手続きを完了する時間がありませんでした。このような事情のため、私は賃金や条件を、船主との口約束で済ますことに同意したのです。
けれども、韓国の浦項港に着いたとき、ドラカール・マリン社は契約書に私の署名を求めてきました。契約書が期待を裏切るものであったため、私は署名を拒否しました。本船がペトロパブロフスクに戻ったときに、船主と話し合う計画でした。ところが、航海予定が1ヵ月ではなく、3ヵ月もかかってしまったのです。私は契約および賃金について船主と話し合おうと、あらゆる努力をしましたが、すべて無駄に終わりました。
乗組員と行動を共にして、もっと早くITFの支援を要請すべきでした。私が間違っていました。このような状況で、ITFが私を援助できないことは理解しています。今では、私がこれまで関係を持った船主とオペレーターには、全く誠意がなかったのだ、と実感しています。
敬具
(氏名はITFが留保しています)
キャプテン・カルラモフ号元船長 |
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