2009年1〜3月 第34号 |
■ILWU |
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ILWU協約改訂闘争勝利の理由
協約改定交渉で賃上げと条件改善を勝ち取った国際港湾倉庫労組(ILWU)。ILWUのクレーグ・メリリーズ・コミュニケーション部長が勝利の理由を語る。
北米西岸の港湾労働者を組織する国際港湾倉庫労組(ILWU)は、2008年7月、数週間に及ぶ行動の末に、29港、2万5千人に適用される新協約を締結した。ブルーカラー労働者の中では世界最高レベルの給与を誇るILWU組合員は、新協約で年金・賃金の引き上げ、医療給付の維持、雇用機会の創出を勝ち取った。 |
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2008年度協約の課題
2008年度協約の交渉チームは、2002年のような事態を防ぐ必要があった。2002年、協約改訂交渉は行き詰まり、10日間に及ぶロックアウトの後、ブッシュ大統領が介入するという事態に発展した。2008年も、景気は後退し、船社が輸送航路を変更しようとしていたため、コンテナ取扱量は低迷し、交渉は難航することが予想された。
ILWUの港湾における全体的な影響力は依然として強いままだったが、他の労働組合の力は減少し(米国では、民間部門の組織率は7%に過ぎない)、協約闘争でも妥協を強いられるケースが増えていた。
ILWUは、組織内部に存在する民主的な制度によって、組合員の団結を強化することで、このような難題に立ち向かった。「港湾幹部会」の代議員100人を選出し、全29港の代表として、1月下旬のサンフランスシスコの幹部会に送り出した。ここで、2週間かけて新協約の目標や優先課題を整理する。100以上の決議が持ち込まれ、長時間かけて議論し、組合役員には厳しい質問が投げかけられた。そして、2週間後には交渉委員を選出し、この交渉委員が幹部会で採択された決議を指針に、組合の要求リスト作成に取りかかった。 |
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イラク戦争反対
幹部会の決議の一つに、イラク戦争に関するものがあった。イラク戦争に抗議するため、5月1日の「作業停止集会」への参加を呼びかけるものだ。通常、外交政策が協約に盛り込まれることはないのだが、ILWUは歴史的に、外交問題に関して幅広く行動を起こしている。ベトナム戦争の際も、労働組合の中ではいち早く反対の声を上げたし、南アフリカのアパルトヘイト時代には、同国からの輸入貨物の荷揚げを拒否した。1980年代にも、中米向けの武器貨物を輸送する船舶に対して行動を起こした。しかし、この種の問題で、全ての港湾の作業を停止するということはなかった、2008年5月1日までは。
この抗議集会に使用者側は激しく反対し、中止に追い込むために法的手段を試みたが、ILWU組合員は5月1日、作業を停止し、港湾は閉鎖された。ILWUのこの行動は、ワシントンの政治家達にも強いメッセージを送った。一方、世論も、1日分の賃金をあきらめて反戦を訴えるILWUの勇気ある行動を評価し、賞賛の手紙が何千通も届けられた。マスコミにも幅広く取り上げられ、その評価は好意的なものだった。
この行動は、交渉の流れを大きく変えた。組合員の団結は固い、公正な協約を勝ち取るために必要とあらば行動を起こすことも辞さない、という警告を使用者側に発することができた。一方、組合員に対しても、組合が信念を持って行動を起こせば、世論の支持を得ることができることを証明した。
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世論の支持と国際支援
ILWUの幹部は、交渉の流れを有利なものとするために、通常よりも数ヶ月早い3月に交渉を開始することにした(前協約の有効期限は7月1日だった)。交渉開始後、間も無く、ILWUはオーストラリアに代表団を派遣した。1999年に同国で発生した重要な闘争、つまり、オーストラリア海事組合(MUA)がパトリック・ステベドアリング社と当時の保守政権による組合つぶしに立ち向かった「パトリック争議」の記念式典に参加するためだ。ILWU代表団はこの記念式典や、その他の国際行事や会議で、世界の港湾労組やITFの幹部と顔を合わせ、彼らから支援の約束を取り付けた。
西海岸のコミュニティー向けのテレビやラジオの広告にも資金を投入した。広告予算が少なすぎて、主要なマスコミで十分に流してもらうことはできなかったが、労働者には好評だった。多くの国民に見てもらうことはできなかったが、ILWUの前向きのメッセージを発することはできた。その結果、組合員のやる気や自信も高まった。
幅広い市民の共感を得られるような問題にも焦点をあてた。現行協約の6年間に16人の港湾労働者が死亡しているという事実を強調し、このショッキングな数字が、組合支持の機運を生み出していった。また、港湾労働者の死亡率が警察官や消防員などよりも高いというデータを集め、自らの正当性を証明した。環境問題にも触れ、ILWUの支部が、地域コミュニティーや環境団体が取り組んでいる港湾周辺地域の空気清浄活動を支持していることも強調した。
一方、使用者側の太平洋海事協会(PMA)は、PR会社を雇って、巧みに世論を味方につけようとした。このPR会社は、港湾労働者の平均年収が138,000ドルで、これに加えて48,000ドル分の福利厚生を享受している、と誤解を招く情報を繰り返し流した。これに対してILWUは、PMA自身のデータを用いて、これらの数字が誤解を招くものであることを説明した。その結果、報道記者らは、PMAのいくつかの主張に疑問を抱くようになった。 |
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合意に向けて
交渉に初の大きな進展が見られたのは、6月17日のことだった。労使それぞれが、医療費に関して合意に達したことを発表したのだ。先進国の中で唯一、国民皆保険制度をもたないアメリカにおいては、医療費負担を使用者に頼らざるを得ず、この問題は、ILWUの現役組合員や年金生活者にとって、最も関心の高い問題の一つだった。業界を主導する現行制度の維持は、新協約締結にあたっての最優先課題だった。全ての交渉にオブザーバーとして参加したILWUの年金生活者からは、貴重な意見やアドバイスが寄せられた。
協約期限の7月1日が近付く中、残りの問題は依然として未解決のままだった。交渉委員会は現行協約の延長拒否を決め、何らかの行動が起こされる可能性が高まってきた。7月1日から数週間が経過しても、協約がない状態が続いた後、組合員は一斉に休暇を取り始めた。バラバラで取るより、港湾運営が困難な状態に追い込むことができるからだ。また、「一斉休暇」を取ることで、遅々として進まない交渉に対する組合員の不満を表明する狙いもあった。一方、「一斉休暇」がエスカレートして、ロックアウトや連邦政府の介入を招くことのないよう、慎重に事を運んだ。しかし、確実に交渉に圧力をかけ、現場労働者の連帯を高めることができた。
最終合意に達したのは、協約期限が切れてから4週間後の7月28日のことだった。交渉委員会も組合幹部も、新協約に関するコメントを一切控え、協約の特徴を述べることさえしなかった。組合員向けの「セールスポイント」や「ハイライト」が盛り込まれることもなかった。マスコミへのコメントもなかった。代わりに、協約の全文が組合員の自宅へ送られたほか、ILWUの全ての労務供給会館にも協約文書が大量に送られた。
その後、ILWUの全支部で会議が開かれ、組合員は自由に質問や意見を投げかけた。5ドルの賃上げが低すぎるとして、受け入れ拒否を呼びかける者もあれば、6年間の協約期限が長すぎると主張する者もいた。しかし、大多数の組合員は新協約に賛成し、組合員投票では賛成票が75%という結果が出た。 |
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ITF港湾部長フランク・レイ
ILWUの成功について語る
交渉が成功した理由は?
協約期限が切れるかなり前から交渉戦略を決めていたことだ。また、解釈の余地を残すような声明は一切出さなかった。まるで交渉に備えていないかのような印象すら与えた。あらゆるレベルの組合員の関与を求め、意見を聴きながら方向性を示し、責任の持てない約束はしなかった。一方、医療・年金などに関しては、断固とした姿勢で交渉に臨んだ。5月1日のイラク戦争反対の行動日には、港湾労働者の強固な団結を示して見せた。労働者の正当な要求を尊重しないと、どのような反応が返ってくるのかを使用者側に知らしめた。
ILWUが使った戦術は次のとおり。
■達成可能な目標を巧みに定める
■用意周到。己と敵の強みと弱みを知る
■他に手段がない場合を除き、対立は避ける
ITFの果たした役目は?
ITF港湾部会はILWUと蜜に連絡を取りながら、交渉の各段階で情報を流した。PMAの意思決定に影響力を持つ人物に我々のメッセージを発することができるよう、戦略的に重要な港湾を組織する組合に、もしもの時のためのスタンバイを呼びかけた。 |
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