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2005年7〜9月 第20号
■真の民主主義のための闘い
 
真の民主主義のための闘い

タイ国鉄労組のソムサック・コサイソック委員長は、独裁や資本主義という名の抑圧との闘いに人生を捧げてきた。ジェーン・バロットが報告する。
 
組合活動を始めた頃のことを聞かせてください。

私はタイ南部の貧しい一家に生まれました。しかし、私の住んでいた地域では、学校を非常に重要視していて、お金はかかりましたが、近所の大半の子供と同様、私も何とか高校を卒業することができました。1963年に高校を卒業すると、鉄道技術専門学校に入学しました。
大人になる頃には、当時のアイゼンハワー大統領や米国の戦後同盟国の支援で1957年に政権に就いた軍事政権が独裁体制をしいており、米国は軍事政権下のタイを東南アジアへの共産主義拡大を防ぐ緩衝地帯と見なしていました。軍事独裁政権の最初の統治者、サリート・タマラット将軍は、タイ国内のいかなる社会主義の動きも抑制するという約束と引き換えに、「タイ経済マスター・プラン」の一環として、世界銀行から貸付を受けました。

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組合の活動家となったきっかけは?

国営鉄道で働き出した当初は、労働組合や政治関係の活動には関わっていませんでした。しかし、すぐに不当労働行為を目の当たりにするようになり、労働者の権利のために闘わないわけにはいかなくなったのです。直感的にそう感じました。自分でも気づかないうちに、私は若い労働者をまとめる地元のリーダーになっていました。経営側は私を抑圧し、あの手この手で報復してきましたが、私を辞めさせることはできませんでした。しかし、私の賃金は11年間も据え置かれました。これはまだ結社の自由や集会の自由が存在しなかった頃のことで、地域レベルでも組合の組織は非常に困難でした。
働き始めて間もなく、私は、独裁政権下で地下活動に転じた組合活動家のネットワークの存在を知るようになりました。
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その地下活動は特定の政党とつながりがありましたか?

活動家の中には共産党員もいましたが、全員がそうではありませんでした。地下活動が主な目標に掲げていたのは、結社の自由と基本的労働権の獲得でした。もちろん、独裁政権側は我々を一まとめにして共産主義者のレッテルを貼りましたが、弾圧を受けた多くの組合員がジャングルに潜伏し、共産党に走ったのは、もっと後のことです。
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転換点について教えてください。

独裁政権樹立から13年目の1970年、地下活動をしていた組合活動家10名が逮捕され、裁判を受けることなく投獄されました。至近距離から発砲を受け、殺害された者もいれば、亡命した者、ジャングルに潜伏した者、私のようにそのまま残って組合の意義について啓発活動に努めた者もいました。憲法の草案づくりなど、国民による政治の準備が行われていた一方、そのような状況が続いていました。
1970年の抑圧は、世界中から激しい非難を受け、その結果、条件つきで国民の権利が再び保障されることになりました。1972年、独裁政権は、最低賃金保障、ストライキ権と交渉権を含まない結社の自由の容認など、条件つきで労働者の保護措置を導入しました。労働者の権利が広がる中、1972年7月に地下活動に入っていた活動家たちの支援のもと、国鉄労働組合が設立されました。
特に国営企業(当時は最大の雇用主だった)を中心として、さらに多くの組合が設立されました。1973年には、亡命先から帰国した学生や学者なども参加して市民運動が組織され、警察との衝突により、千人以上が命を落としました。1973年の10月になると、我慢の限界に達した労働者や一般市民がゼネストを行いました。このゼネストにより、独裁政権が打倒され、国王の任命で文民による新しい政府が樹立されたのです。
しかし、これで独裁が終わったわけではありませんでした。わずか3年後の1976年、膨れ上がる国民の力を恐れた将軍が再び政権を奪還しました。鉄道部門だけでも、1973年から1976年の間に労働条件をめぐる全国ストが3回も行われました。
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1976年後、何が起きましたが?

2度目の独裁政権の初期は、暴力に満ち溢れ、軍隊は多数の組合員や政界の指導者を殺害したり、投獄したりしました。再びジャングルへ潜伏した者もいれば、収容所に送られ、「再教育」を受けさせられた者もいました。しかし、諸組合は個々の基盤を守りぬき、1975年に制定された労使関係法も消えてなくなることはありませんでした。
1976年から1992年までの期間は、軍事政権と文民政権がめまぐるしく入れ替わりました。1991年に最後の軍事政権によるクーデターが発生し、公共部門の労働組合は再び活動を禁じられました。
1992年になると、市民団体が再びまとまり、強力な協力関係が構築されていました。将軍らは、軍事政権への強力な反発に暴力で対抗しました。わずか数ヵ月間で100人が射殺され、さらに100人が行方不明になりました。行方不明者の中には、1992年6月に誘拐された労働組合会議(LCT)の議長も含まれています。現在まで彼の消息はつかめておらず、既に死亡したものと推測されますが、事実は分かりません。
しかし、国民の抵抗は続き、1992年、ついに将軍らは国民へ政府を明け渡す他なくなったのです。
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1992年以降の労働運動の功績は?

1992年以降も、容易ではありませんでした。団結権は完全に手に入れたものの、特に民間部門では、依然として企業内組合が主体であり、組合の力が弱いと言えます。産別組合の歴史はまだ開かれていません。そのため、最大の組合は国営企業の組合で、労働運動の基盤は依然として公共部門にあります。
さらに、資本主義という名の新たな独裁主義に直面することになりました。使用者は、経済の急速な自由化を巧みに利用しており、政府はそれを後押ししています。労働者は長時間、懸命に働いていますが、賃金は下がる一方です。
こうした背景から、公共部門の労働組合は市民団体と協力して民営化と闘うことになりました。我々の民営化反対キャンペーンはこれまでのところ、成功しています。政府は今年、水道やエネルギーなどの事業を民営化する計画でしたが、反対の声があまりにも強かったため成功しませんでした。労組と市民団体の協力関係はより広範な問題を対象とするようになりました。貧困が広がり、労働者の賃金は下がる一方です。個人の抱える負債も危機的な状況まで膨れ上がり、こうした状況から再び軍事政権が盛り返すのではないかと懸念しています。
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独裁政権から得た教訓は?

クーデターが起きるたびに、独裁政権は、排除、潜入、抑制など、あの手この手で真っ先に労働運動を潰そうとします。今後もクーデターが起きれば、どの軍事グループが政権に就いても、全ての労働組織が力を合わせ、ためらうことなく抵抗する必要があります。
労働運動の指導者は、民主主義の真の擁護者でなければならず、誘惑に負けるようでは務まりません。市民社会や政治の世界で労働者を代表した地位に就く者は、自らの責任を自覚し、自らの地位を労働者の権利の擁護のために利用しなければなりません。そして、一般市民が指導者たちの行動を監督することは絶対的に必要なことです。指導者の言うことを鵜呑みにするのではなく、彼らの行動を監視することも重要です。
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タイの労働運動が今、やるべきことは何ですか?

経済的、社会的、政治的な交渉を行うための力となり得る、統一された強固な組織をつくる必要があります。そうすることで、初めて、より広範な運動と協力関係を築き、真に民主主義的な制度をわが国に築くことができるのです。
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ジェーン・バレットは、南アフリカの交通労組、SATAWUの政策研究担当役員。バレットによるコサイソック委員長へのインタビューは2004年11月にバンコクで行われた。
独裁、社会不安、容赦なき抑圧、そして文民による政治

20世紀後半のタイでは、独裁的軍事政権の支配が長く続いたため、学生、市民、労働者からの反発は強かった。1976年に南アフリカで大勢の学生が警察によって殺害された時、タイでも同じことが起きていた。1976年だけでも千人以上の学生や労働者が殺害された。
タイの労働運動は、民主主義政権の樹立に特に重要な役割を果たし、軍事独裁政権は最終的に1992年に幕を閉じた。1992年以来現在まで、1957年以降で最長となる文民による政権が保たれている。しかし、この間に、新自由主義経済政策との闘い、政府が次々に推進する民営化との闘いなど、労働組合は新たな課題を抱えるようになった。
1万5千人を組織するタイ国鉄労組(SRUT)は、民営化反対運動を率いてきた。タイ国営鉄道は、収益の半分を旅客サービスで賄っており、存在感のある人気の高い公営サービスを提供している。
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抗議の結果、失敗に終わった民営化計画とは?

6〜8万人の労働者が2004年のメーデーの集会に参加したと言われている。労働運動、農民、学生、その他の市民運動団体が共同でメーデーの要求事項を下記のとおりまとめた:
1. 民営化を中止し、国営企業の効率化を図る。
2. 最低賃金の公正な引き上げを実施する。
3. 結社の自由と労働権に関するILO87号条約および98号条約を批准する。
4. 職場の安全衛生に関する法定最低水準を保障する。
5. 下請け先の労働者や移民労働者を含む労働者の権利を保護する法律を実施する。
6. 医療機関へのアクセスなどの面でHIV感染者の権利を保護する。
これらの要求事項、およびその他の民営化反対の抗議運動は、大衆の支持を受け、2004年に予定されていた政府の水道とエネルギー事業の民営化計画を差し止めるに至った。
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